第5章 集中の原則/N二乗法則

原題 : THE PRINCIPLE OF CONCENTRATION / THE N-SOUARE LAW (1914/10/2)

【目次】

 

※ 本研究に必要度の高い文章は、太字で示す。

19 集中の原則

この際少し本題を離れて、全ての戦争行為で常識とされているものを科学的かつ実践的に考え直してみる必要がある。

戦争に関する大きな問題の一つは「集中力」ということである。

つまり一つの目的または、目標に対して交戦国が全ての資源を集中して投入することであり、と同時にその勢力を敵の主要な強さに対する集中である。

それが海軍であろうと陸軍であろうと、戦争においてそうする必要がある。

しかし、集中の原則は、それ自体が戦略原則、というわけではない。

つまり、それは純粋に戦術的作戦に対して効果的に影響を及ぼすものであり、その物質的な面においては純粋に科学的特質に基づくものである。

問題の二つ目は、「精神的集中力」と「物理的集中力」の両方を混同して一つの言葉として使われていることだ。

このため集中力の問題は多くの著名な著述家によって、あいまいに扱われている。 そして人は「神聖な言葉メソポタミデ」というように、「集中」ということばには、何か美徳があるかのように考えているのである。

しかし、集中ということばは二つの使い方によっては完全に別々の観念を指しており、しかも二つの観念の間には何の共通点もないのである。

物質面における集中の重要性は、攻撃と防御の方法に関連した、ある基礎的な規則に基づいているのである。

そしてもし、この意味で私達が集中力に対して的確にその価値と重要性を評価するなら、我々は集中力を表面的な意味にとらわれない方がよく、むしろ根本的な法則面に注意を払った方がよいのである。

集中の概念を学ぶにあたっては、もっとはっきりした基盤となるものを捜すべきである。


20 古代と現代の交戦状況の対比と防衛方法

古代の戦いでは、今話している問題の例として使えるかもしれない。

古代は、現代の防御方法と比べて重要な違いがある。

古代は武器に対しては武器で戦っていた時、防御行為は積極的かつ直接的であり、相手の剣や斧の一撃は自分の剣や盾で受け流していた。

つまり戦いはすべて「直接戦」であったのだ。

一方、近代の条件下では銃に対しては銃で立ち向かい、大砲に対しては大砲で防御している。

近代武器の防御は、相手の砲弾を自分の大砲で直接的に受けるわけではなく「間接的戦い」になる。

つまり敵は、相手方を殺すこと以外の方法で自分自身を守ることはできないのである。

古代戦と近代戦における戦い方の違いは、歴史的にみて集中力の重要性は決して同じ内容ではない。

古代の条件下では実際の戦線にほぼ同数の兵士を連れてくる事よりも、戦略上の計画とか戦術的策略を練ることの方が難しかった。

つまり古代戦の戦いでは、いつも1人の人間が1人の人間にのみ相対していたのである。

もし仮に相手が、戦場のある一部で敵兵の2倍の兵士を集中しても、戦線が保たれている限り、現実に武器を振り回している兵士の数は、双方とも大体同じとなるであろう。

しかし、今日の条件下ではこのようなことは、全て変わって来ている。

要するに、火器という「飛び道具」を使用するようになった現代は、数の上での優勢が即時に戦力として優勢を誇ることができ、人数的に少ない方は、兵士対兵士の比でみるよりも、はるかに激しい攻撃を受けることになる。

この二つの違いの重要性は、普通考えられているよりもずっと大きなものであり、この道いこそが、問題全体の核心を含んでいるのであるから、詳細に検討してみることにする。

古代と現代の条件を対照してみるとき、集中力の有利さが昔の戦争で全く存在しなかったわけではない。

古代の戦闘でも、例えば部隊が惨敗してちりじりになったときは、疑いなく勝者の数的優勢がはっきりとわかる形で表面に出てくるであろうし、その前に攻撃による打撃とは異なる精神的な圧迫感が大きな影響を及ぼすであろう。

従って限られた範囲内では数の上で攻撃に集中できるのだが、弓矢や石弓は近代戦で使う火器が持つ性能よりは、少ししか集中の特徴を持っていない。

ここで述べているように、全ての条件は例証の目的のために極端な手段で、最も強調された形で対比されている。 まず兵士と兵士が、1対1で対戦していた古代戦闘の状況を考えてみる。

双方が同等の戦闘力を持ち、他の条件も同じだと仮定すると、1対1の戦いでは平均的に見てどちらかが勝ち、どちらかが負けるかは「5分5分」と予想される。

当然損害の出方は敵味方とも「同数」になる。

従って、1000人と1000人の兵士が出会えば、単一の決戦において1000人の青軍が1000人の赤軍に対抗するのか、全ての青軍が500の赤軍に集中して全滅させ、そのあとで残り半分に勢力を向けるかどうかというのは、余り大した違いはない。

赤軍が最後まで自分達を守り、一方青軍も最後の戦いで赤軍を全滅させた残りの戦力があると仮定すると、2回目の戦いは双方同等の戦力で始まる事になる。

つまり2回目の戦いは、青軍500対赤軍500ということになる。


21 近代の条件に対する研究

それでは近代戦の状況を取りあげてみよう。

敵味方とも同じ条件の戦闘員と仮定するならば、各々は平均的に与えられた時間内で一定の数の的中率があると考える。

戦う兵士の数は前と同じで、1000対1000であるが、一方が1000を500と500の二つに分けて戦ったとする。

結果的に一定時間ごとに倒される兵士の数は、双方の数の比の2乗に正比例する。 これを数学用語に置き換えて、bは青軍の数的力を表わし、rは赤軍をあらわすとすると

 

 

tは時間を表わし、cとkは定数である。
もし、その軍の個人単位の戦闘技術が同じならばc=kである。

二つの部隊の力の損失は、上の等式に従って描かれる二つの対をなす曲線で表わされる。

図1の(a)のグラフでは、1000の強さを持つ青軍が500の強さを持つ赤軍に遭遇するのを表わしており、赤軍の存在は青軍がわずか134人を失うことによって相手を全滅させることができる。

そして次に赤軍の残り500に対して青軍の866人が戦えるために、安易で決定的な勝利をおさめることが分かる。

 

 

つまり、これは図1の(b)に示されているように勝者の青軍はわずか293人を失うことで、1000人の敵の赤軍を全て絶滅させてしまうことができるのである。

図1の(a)では、赤軍が1:√2での関係で青軍より劣っていることを示しているケースである。

つまり赤軍1000の強さに対して青軍1400の強さに対面することになる。

もし彼等が同一の条件で最後まで戦うと仮定すれば、上の線は青軍を示し青軍がわずか400人の人間の損失で赤軍を全滅させたという事が分かる。

一方、もし優秀な作戦方法を持っている赤軍が青軍を二つに分断して戦うことになれば、図1の(b)のようになり、最初の戦いで赤軍は300の損失で赤軍の700を全滅させられる。

そして2回目の戦いでは、二つの兵力が同数の体制で出会う事になり、最後の戦闘では図に描かれているようになると推定される。

この2番目の場合、2回目の戦いの結果は、それぞれ兵力の最初の均等性から想定することが出来るし、図の曲線は違ったものになる。


同等の力の場合には二つの対をなす曲線は一致する。
つまり図2にあるように対数の形の単一曲線になるのである。

そして戦いは無制限に延長されるのである。

しかし、兵力は事実上限定された部隊の限定された数で成り立っているので、0.15人というような兵士は存在しないから、曲線の終わりは最後の一人がやられた瞬間、突然切れることになる。

平均性に基づいた法則はその数が少なくなってくると厳格にそれを維持出来ないことは明らかである。

このことを乗り越えて、二つの同等曲線の状態は不安定なものになり、いずれかの側によって得られた有利さは増加する傾向にある。


23 分割された力の弱さを表わすグラフ

図4では対をなす二つの曲線が終わりを表わす垂直線から後向きに書いてある。

そして上のグラフは赤軍の合計を表わすために付加されたものであるが、いかなる縦座標に対してでも青軍と同等の力を持っもので、赤軍は下のグラフの交差によって表わされるように、二つの割合に分けられるという条件に基づいている。



図5では、この図が安定した力を持つ青軍を「パーセント」表示をして、同じ情報を示すために縮小した形で表わされている。

その応用として図表は政治的、戦略的必要性から上に述べた軍勢や艦隊を下のグラフに示されているように2分し、また敵は全力で両方の分野を攻撃出来るという仮定の下で、軍勢や艦隊の闘争力を増加する必要性を正しい率で表わしている。

かわりに、もし定数(=100)が敵に対しての勝利に十分な数として表わされるならば、また両方の艦隊が全力で戦うと考えると、上のグラフは政治的戦略的必要性の点から、その艦隊が支持された割合に分けられた場合、数の上での必要な優越性を表わしている。 図5での横座標は量的なものに関する意味は全くない。


24 数学的処理法の妥当性

本題に関して人間の士気とか指導力を初めとして、戦闘武器の長所、短所、さらに、もっと知られていない「戦争が始まる可能性」というような、あまりにも沢山の不確実な要素のために、事実として存在する数学的または半数学的な処理法に対しても、これに文句を言いたくなる人が多くいるものである。

そしてそのようなことに対して、何かが予測出来るようなふりをし、事実を見失うというのは馬鹿げたことであるが、この答えは簡単だ。

つまり戦争に参加する人数、あるいは戦争で使うことのできる戦力の数学的比較は、ほとんど普遍的なものである。

これらが、あらゆる軍の権威者に深い興味を与えているのは事実で、新聞でいやになるほど論議されていることである。

しかし、軍事力を直接的に計算するという事は、とりもなおさず数学的な法則の適応を暗黙のうちに認めているから、その計算は特別の場合に限られている。

戦争において、ただ単に「兵員数のみを数えること」を、無条件で価値のあるものだと受け入れる一方で、兵員数だけですべては決まらないと、これを否定する人もいる。

これはつまり、計量器を重さを正確に測る道具として認めながら、同時に計量器の良さとその原理を認めないということと、同じくらい非理論的であり賢くないやり方である。

 


25 同等の力のない戦闘部隊

方程式(1)と(2)ではcとkの二つの定数が与えられ、それらは同等のものとして図1から5の中に記されている。

これが意味するのは個人の戦闘力は同等と仮定されているのである。

この計算は、戦闘員の技能があまりにも違っていたり、異なった士気を持ち合わせている場合には、必ずしも成立するとは限らないし、彼等が持っている武器が、あまりにもかけ離れているときも成立しない。

その他の数えきれない程の要素と同じように、最初の二つは、ワインや鉄の質が、その重さからだけでは推測出来ないのと同じように、一つの方程式の中で説明されうるものではない。

しかしながら、武器についての疑問は大いに理論上の議論に適している。
後で説明するが、そのことは現在主題として取り扱っている事との関係において考慮が必要なのである。

 


26 武器効率の影響

例えばライフル銃の正確さと敏捷さを例にとっても分かるように、どのような武器でもその効率の遣いは、方程式(1)と(2)のcとkの不等式で表わされる。

ライフル銃やマシンガンの場合は簡単な例だ。

というのは、武器の闘争効率を代表すると言われているもので、比較出来る数値を簡単に手に入れることが出来るためである。

戦争のとき、もし敗者が敗北によって自分達の武器性能を高めることができないのであれば、彼等の強さは同等であるといえる。

もし青軍が最初に500の戦力で連発銃を使い、1000の後装銃(単発式の銃?)を使った赤軍を攻撃して、結果的に赤軍200の損失に対して青軍100の損失が判明しても勢力の比率には何の変化もないし、青軍はもともと強いということで、それらは同等の力と見なされるだろう。

もし同等の状態が青軍の個々の部隊の価値や効率をMで表わしNが赤軍の武器効率を表わすものとすれば、結果は次の様になる。

青軍の削減率


いいかえれば、人数の2乗に個々の部隊の「武器効率」をカケたものが同等であるならば、二つの軍勢の闘争力は同じなのである。


 


27 N2乗法則の調査結果

この法則を一般的に説明するのはいたって簡単である。

つまり「戦闘力」は、兵員数の2乗に部隊の武器効率をカケたものに比例するものであると定義づけられる。

図5について言うならば、赤軍の二つの部分の2乗の和は、青軍の2乗と全て同等の価値(これは定数として表わされている)を持つものである。

つまり、この曲線はこの法則で表わされてきたのと全く同等なのである。 前に説明した(1)と(2)の微分方程式から起こる上記法則の単純な証明は次のようになる。


図6では青軍と赤軍の数値は各々ラインbとrで示されており非常に短い時間内での変化をそれぞれd bとd rで表わしている。

そしてその変化の度合いは
d b/d r=r/b または
b d b=r d r ・・・・(1)となるのである。

図6にあるように、もしbとrの2乗を図式化し、d bとd rの増大を非常に限られた範囲で表わすなら、b2の面積の変化は2b d bであり前述の(1)によるとr2の面積の変化は同じことになる。

従って二つの2乗間の差異は定数(一定)となり
b2-r2=定数となる。

もしこの定数が物量q二乗で表わされるなら
b2=r2+q2となり、

qは赤軍全滅後の青軍の残存者となるのである。変わりにqは図6にあるように赤軍を同等の力を持つ軍にするために「分離行動」は、第2次赤軍の力を数字で表わしている。


28 数字上の事例

上記の例として、全く同じように武装した40,000人と30,000人の二つの部隊に対して50,000人が対戦したと仮定してみよう。

50,000の2乗=40,000の2乗+30,000の2乗なので戦力は同じになるのである。

一方、もし二つの小隊が一つになる時間が与えられると、70,000対50,000になるので50,000の軍隊は当然圧倒されるであろう。

というのは、戦闘力は49対25になるからである。 実際は、秀いでた士気、よりよい戦術または多くのその他の理由が論点を変化させようとするかもしれないが、これは数学的実証を無効にするものではない。


29 違った効果を持つ武器の使用例

それではここで、兵員数と戦力に違いが出る原因について考えてみよう。

1人の人間がマシンガンを使って、一定の時間に16人のライフルを持った人間を標的にすることが出来ると仮定する。

戦場で1000人の歩兵に匹敵するには、何人のマシンガンで武装した人間が必要になるか。
それは4分の1の250人になる。

この例は、戦略方法の効用と弱点をはっきり示していて大変ためになる。
基本的な前提としては、各軍の戦火は徹底的に相手軍を狙い打ちし、集中作戦をとるということである。

このようにすると敵は、普通ならば4人のライフルマンに向けられるべき砲火を1人のマシンガン操縦者に集中でき、マシンガンを持った兵士は、平均的に4分の1の時間しか生き延びることが出来ない。

そして彼の短い生命の間に、一般的に思われているように16人分の働きが出来るのではなく、4人分の仕事を16倍の効率でしか実行出来ないのである。

このことは方程式での計算と一敦している。

これらのことは、ボア一戦争での条件とうまく一致すると考えられる。
そして、その戦争では個人的狙い撃ちの発砲や狙撃ということがその日の命令であった。

一方、その地形や環境が兵員の集中を妨げる時や、射程距離の長い兵器が使用できる地域を捜したり、どこの集団に向けて発砲するかを捜している時は、集中の法則が成立しない。

こういう場合は、1人のマシンガン操縦者の力が、16人のライフルマンの力に等しくなる。 同じようなことは、その人間が個人に対してよりも、むしろ陣地に対して榴散弾(りゅうさんだん)を直接撃ち込んでくるときにも成立する。

そのようなことは、条件の変化とか理論から結果的に離れてしまうことの本質に注意を向ければ、うまくいくものである。

というのは、このような例外は、陸軍よりも海軍においては殆ど起こらない。
船は、常に砲兵隊員が相手の船全体を1個の標的として狙い撃ちする。

また飛行機について考える時、この条件は陸軍より海軍での状況とよくにていることが分かるだろう。

というのは、敵の飛行機は集合的な時より、むしろ固体となっている時の方が完全に砲兵員が狙い打ちするところとなり、ここに述べて来た決まりは、応用できるものとしてとりあげる事が出来る。


30 様々な前提

主題の関連性から少し離れて、今論じているようなやり方はある魅力を持っており、時としてこういう論じ方は、ある程度思いもかけないような結果を生み出すことがある。

もし長距離砲火の状態を調整するために主な前提を修正し、敵が砲火を集中するだろうと予知された場所を仮定して、この場所を戦力の数的価値からはずして考えると、以前に表記したように

である。

または、損失率は数に関しては別個のものであり、直接的には武器効率によるものである。

このような状況のもとでは、その部隊の戦力が数の力と直接比例したものになり、集中力としての直接の効果はなく、古代戦争の時と殆ど変わりがない、といえる。


31 予想外の推論

集中力が効果を示すためには、数の上で勝っている軍隊が相手の陣営に近付いたり、出来るだけ早く決定的な射程距離内に攻め入ることは当たり前である。

極端な例であるが、マシンガンで武装した青軍の100人が、ごく普通のライフルで武装した1200人の赤軍と対戦したとしよう。

まず最初の仮定として、双方の軍隊がある一定の前線をライフルの射程距離ギリギリの所に広く拡がったとする。

このような戦いでは、ライフルで武装した側が戦力を集中することができないので、赤軍は青軍一人に対して16人を失う。

このような条件下で戦闘が続行されるなら1200人の赤軍が敗北することは明らかである。

しかしながら、もしライフルで武装した赤軍が進撃して短い射程距離に入って「接近戦」となり、敵味方の兵士が「1対1」の目標になったとすると事態は変わり、損失の出方は違ってくる。

前の方程式と条件が適用され、たとえ赤軍が残して新しい陣地を手に入れるために、実兵員の半分を失ったとしても、この戦闘では勝てる。

彼等の力は、間接戦においては青軍100の2乗×16に対し600の2乗×1になるからである。

しかし、破壊力が強い近代のマシンガンでの場合、その性能が発揮されないようにするために、万難を排して近くまで近付くということは、実にむずかしいことである。


32 歴史上の事例

少なくとも戦場における集中力は、最も重要なことであるということは、全ての権威者の一致を見るところである。

事実、近代戦争においてそれは戦略と戦術の双方で支配的要因となることは認められている。

歴史に残る大戦争のいくつかでは、集中力が影響を及ぼす前に、相手軍に攻撃されたことが例証されている。

古い例としてはイタリア遠征の時、ベロナの近くでのオーストリア軍が、ナポレオンによって敗北させられたものがあげられる。

ナポレオンは、オーストリアの二つの軍が合流して行動を共にしようとする前に、それらの軍の動きを詳しく調べて別々に攻撃している。

また同じ法則がしばしばよく例に出される、1796年のチャールズ・オーストリア大公によるダニューブにあるジョルダンとモレアの敗北の場合もそうだ。

しかし、陸軍の作戦で広い戦場で戦いをする場合、前に説明した2乗法別の仮説と一致しているということは明白である。 それでは近代戦の状況を取りあげてみよう。