野口誠一会長の人生史(前半生)

(生まれたときから、7と8に縁がありました)

東京都荒川区三河島7丁目888番地で生まれる。

昭和5年11月11日 「まことに1づくし」で誠一と名づけられる。
昭和5年生まれは、俵孝太郎、竹村健一と同じ。

父親は、野口八百治郎(やおじろう)。母親は、8月18日亡くなる。
七転び八起きから八起会設立 1978年8月。体重87kg 40年間変わらず。

東京空襲で本郷中学 2年生の半ばに焼け出されて、千葉県に疎開。
学徒動員でガラス工場に強制的に1年間 働かされる。

戦争終了時15歳。勉強を再開し、赤面症克服のために弁論部を自ら作る。部長として活躍。南千葉県弁論大会を企画し、中学8校で大会を行う。これがその後、八起会を作る基盤になる。

「苦手なことをやりなさい」というが、この経験がそれを言わせている。これにより、自己改革できる。好きな趣味は金がかかるが、苦手克服は金が掛からない。

この時代は、中学が5年制。3~5年生まで弁論部。脳梗塞の父親と一緒に牛小屋で暮らす。
母親は一人東京で中華料理屋で勤め、二人の生活費用を送ってくれた。

お兄さんは神戸高等商船学校卒業。貨物船の船長になり、毎月1000円(今の金額で20~30万円)を仕送りしてくれた。4人兄弟 長女、長男、次女、会長で自分は末っ子。次女は結核をわずらい自殺。この亡くなった姉が自殺防止をやってくれと言っている気がして仕方ない。これは八起会を作ってから思い出した。

中学を卒業後、日大政経科の夜学に通う。昼間は働く。最初は4時に終わるタンス屋の店番、お母さんの紹介で。タンス屋さんで住むところも確保してくれた。しかし、店番は性に合わなかった。

大学時代は、弁論部と演劇部に所属。弁論大会でいつも賞を貰う。優勝も多数。

Kという代議士がスカウトに来て、選挙応援も経験。
将来の秘書を望まれるが、商売で儲けること、社長になることを選ぶ。

友人がゴムベルトで儲けているのを見て、ゴム長の製造・販売を始め、19歳から3年間 大学を卒業するまで続ける。

大学卒業後は、義兄の経営する玩具屋(ぬいぐるみ)に入社する。3年くらい。集金係として手形でなく、前金で集金する経営に移行させ、重宝がられる。

ここで、奥様に出会う。自分で事業をするためにも、働き者で健康な女性であった奥様に決める。

25歳で独立。奥様20歳。東京都荒川区町屋に「有限会社 野口玩具」を設立。

1年後に家を新築。新築祝いで銀座で組合のメンバーを呼んで銀座で大宴会。業界では、「野口はすごいヤツ」という評判を作った。この家を含めて、5年間で5件の家を建てる。

下請け会社を7社作る。それぞれが工場を作る。ぬいぐるみを何万個も生産。
朝8時から6時まで+毎日残業の日々であった。